2008年5月6日火曜日

ガラスという物質

工芸では形式と同様に素材への執着が最も基本的な要素になっている。

ガラス工芸の素材すなわちガラスという素材は、中でも独特である。

一般の不透明な素材は表面が見えるだけであるのに対し、ガラスは透明なものであるから、物質の内部まで見えるような気がする。

しかし、実際のところ、透明なガラスであっても見えるのは表面だけなのだ。 表の表面と裏の表面とを見ているだけなのである。 内部にインクルージョンや気泡がある場合、インクルージョンの表面を見ているか、気泡の表面を見ているだけなのだ。

ものを見るということはものの表面が立体的に形作る表面を見ることであり、そこで反射なり透過する光の色彩と明るさとを感じることなのである。ものそのものを決して見ることがないというのは、最近話題になることもある暗黒物質、すなわちダークマターの場合と変わるところがない。

とはいえ、ガラスという材料は、以上のようなことを気づかせてくれるのである。

ガラスという言葉

ガラスという言葉、日本語の言葉として定着しているこの言葉には依然として、必ずしもガラス関連の全てをカバーするだけの力を持っていない様に思われる。 例えば、英語では飲み物の器に対して用いられる glass を日本語に訳すときはガラスではなくてグラスが用いられる。 ステンドグラスはステンドガラスと言ったり書いたりすることはまずないし、グラスアートもガラスアートとというよりもグラスアートという方が一般的だろう。それでもガラス工芸をグラス工芸とは言わないし、ガラス器をグラス器とも言わない。ステンドグラスをステンドガラスとは言わないが、板ガラスを板グラスということはまずない。

ガラスには硝子という漢字が当てられているのに対し、グラスに漢字が当てられることがない事から推察すると、やはりガラスの方が日本語の発音体系に合っているのだろう。 しかし、ガラスという言葉の語感に対してはどこか物足りないもの、不満を感じている人も多いことが分かる。

宮沢賢治は、詩や童話で、何時でもというわけではないが、玻璃ということばを使っているときがある。彼は漢文の法華経など親しんでいたと言われるから、その方面の影響があったに違いないが、やはり、ガラスという言葉を詩の中で使うのには不満があったのだと思う。 しかし、玻璃と言う言葉を常に使い続けることは出来なかったようだ。

玻璃を古語辞典で調べてみると、かつては水晶の意味で使われていたと書かれている。 しかし同じ古語辞典によると、水晶と言う言葉も古くから使われていたことが枕草子に使われている用例が出ていて、分かる。 とするとやはりガラスは玻璃だったのだろう。

ガラスが日常的に広く使われる時代になって、玻璃が使われなくなったのは、それが古くからわずかながら有るにはあったにせよ、本格的に使われるようになったものは西洋から導入された訳だから、江戸時代にはギヤマンとか、明治になってからはガラス、というように、入ってきた国の言葉を外来語として使用するほうが良かったのだろう。 また玻璃には同音語が多いし、字も難しい。 同音語が多い言葉だから仮名で書くわけにも行かない。

というわけで、ガラスという言葉には多少妥協の産物のような印象がぬぐえないところがある。 個人的にもあまり好きではない。 かといって玻璃という美しい言葉が復活することも有りそうにない。 残念なことだと思う。

2008年5月5日月曜日

機能、用途、形式、様式、およびジャンル

建築と工芸では機能と用途がよく問題にされる。 絵画では機能や用途が問題になることはあまりないだろう。 しかしイラストや図案、などでは問題になってくるが、これはもう工業デザインの範疇であって工芸に近くなる。 全く異なった分野である音楽ではどうだろうか。音楽で問題にされることが多いのは形式という言葉だろう。 とくにクラシックではソナタ形式とか、色々形式に名前が付けられている。 また音楽ではジャンルがよく使われる。クラシック、ジャズ、ポップス、歌謡曲、民謡、こういうものはジャンルと呼ばれることが多い。 現実には音楽にも「用途」はある。 ダンス音楽はダンスの伴奏が用途といえば用途である。 クラシックでは舞踊音楽が形式に変化した。 メヌエットやワルツなどがそうだ。 これらの言葉は互いに重なる部分が有る。 重なる部分を別の言葉に置き換えることによって、新たに何かが見えてくることもあるのではないか。

特にガラス工芸でよく問題になったのは機能、用途の問題である。 これらの言葉を形式、ジャンル等に置き換えてみて考えることも必要だろう。

光と光源

ステンドグラスも含め、ガラス工芸を語るとき、とかく光についての言及が繰り返される。

光とは何なのか、それは考えるまでもないことかも知れない。 誰もが光を見ており、知っている。 しかし、これが科学であれば厳密な定義が求められると同時に、そのこと自体が追求の対象となる。 色彩と同様に。 そして現在、物理的には色彩と同様に、基本的に定義は定まっている。 つまり電磁波の一種である。 しかし電磁波とは何かということになると、これはそう簡単に一つの言葉で置き換えるわけには行かないし、物理学者でもない素人が強いて説明するとすれば科学事典か百科事典をそのまま引用する他はあるまい。

それでも、
工芸、デザインなどのアートを考える上でも、それを言葉で考え、説明しようとする限り、科学的な定義や説明を手がかりに出発するほかはないだろう。

光は電磁波であって粒子として振る舞うものだといわれている。粒子といっても砂粒や小麦粉のように固まって容器に入っていたり、空中に飛散したり、沈殿したりするわけではなく、高速の光速で動いている。 最近は光を何らかの方法で閉じ込めたり出来るらしいが、それは極微の世界のはなしで、この際あまり関係はなさそうだ。

というわけで、波動として光速で進み、粒子としても極微の光を見るということはナンセンスであることが分かる。 第一、ものを見るということは光を当てて反射させたり、透過させて見るということであるから、光に光を当てて見るなど、そんなことが出来るわけがない。

それにも関わらず人は紛れもなく光を見る。 ガラス工芸を論じる際には光を貯めるとか、自由自在に操れるかの様な表現もよく見受けられる。

要するに、人は光を見ていると思うとき、光そのものではなく、光源を見ているのである。光源を見ると考えることによって、それ以後の論議を進めることができるようになるだろう。

そこで、
光源とは何か、がまた問題になることだろう。
物理的にはこれはきわめて簡単に片付くことかも知れない。
光の発生源といえば一応はそれで済む。
しかし、逆に、
芸術家や工芸家の立場からはそのような定義では満足できないのではあるまいか。

光源とは何だろう?