2008年10月14日火曜日

ガラスの灰皿という器の形式

個人的に、煙草はもうとっくの昔に止めてしまった。それでも止めたときは10年以上は吸っていたので止めづらかったことは確かで、止めた後数年間は夢の中で吸ってしまったこともよくあったくらいだが、今は全く吸いたいと思うことも無く、煙草の煙があれば少しでも遠ざかりたいし、煙草を吸う人には反感を感じるくらいになっている。しかし、一方で煙草の習慣が廃れていくことに対して残念な思いもあるのである。そのような、一種の「文化」といっても良いかも知れないが、煙草文化とでもいえるものは確かにあったのであって、それに対する郷愁ともいえるかもしれないが、もっと具体的ともいえる理由がある。それは灰皿という器の形式が廃れてゆくことに対する残念な思いである。またこの灰皿という形式が、ガラスという素材によくあっていたと思うからでもある。

そもそも私が煙草を吸いたいと思うようになったきっかけの大きな部分が、灰皿という種類の器が好きだったからともいえるかもしれない。あのような形の器を常に身近に、机やテーブルの上に置いておきたかったのである。

それがガラスと結びついたきっかけもよく覚えていて、二十代のころだったが、たまたまデパートの陶磁器、ガラス器売り場を眺めながら歩いていたときにボヘミアンガラスのコーナーで、値段も覚えていて、2万円もする灰皿がケースの中に陳列してあり、それがいたく気に入ってしまったのである。形としてはやや大型の、浅いが、肉厚の灰皿で、部分的にカット、と言ってもカットグラス風のカットではなく、切込みをいれて形を作るためのカットと透明赤紫の着色と金彩の模様を組み合わさったようなもので、わりとシンプルだが、クラシックな感じのものだった。

もちろん、買わなかったが、そのとき以来、特にガラスと灰皿とが結びつき、それよりかなり後年になってからガラス工芸に興味を持ち、ガラス工芸の学校にまで行くようになった1つのきっかけになっているかもしれない。

灰皿がガラス器に向いているのは確かだろう、事実昔から多少でも趣味的な要素のある灰皿にはガラス製が多かった。ガラスはああいった肉厚の安定した器にも向いている。

机やテーブルの上にはあのような形、皿でもないが、花瓶などのように背が高くない器が載っていて欲しいのである。机の場合は真ん中というわけにはいかないが、テーブルの場合は真ん中にあるのがいい。机の場合は自分ひとりのためだが、テーブルの場合はコミュニケーションの場になる。花瓶のようにそれ自体が高さがあるものに花を挿したりしたものがテーブルの上にあると不安定で危ないし、相手の顔が見えなったりする。そういう場所には灰皿のような形がちょうどよい。

喫煙自体も、それが有害でさえなければ、会話を円滑にする助けになるなどのメリットもあることはよく言われてきたとおりであると思う。しかし、身体的な健康問題だけではなく依存性という点で精神的にも有害、火災の原因としても問題、等々、今となってはもう容認するわけには行かない。しかし、灰皿の形式は、とくにガラスの器にとっては残されておいて欲しいものだと思うのである。しかしテーブルに灰皿が置いてあれば、煙草を吸ってくださいという意味になってしまう。そこでそういう場所に置けるオブジェのような形式のものがあるのもよいのではないかと思う

オブジェと言えば彫刻と同様、飾り棚に飾ると言うような形式にならざるを得ないし、そのように制作する場合が多いだろう。しかし灰皿のようにテーブルの真ん中に置けるようなオブジェがあってもよいのではないかという気がする。

しかしやはり器でなければならないような気もする。しかも灰皿のように中は空で、菓子など、中身が入っていないほうがよい。とくにガラスの場合は何も入っていない方がいい。何を入れる器というわけでもなく、テーブルの真ん中あるいはデスクの片隅における背の低い、しかし皿ではない安定した、肉厚の器があってよいのではないかと思う。

2008年7月2日水曜日

工芸の形式(1) ―― 意味と美と形式


工芸品の形式はだいたいその用途に由来している。用途、すなわち機能といっても良い。
用途に由来する形式を持つ美術品を工芸と呼ぶ、と定義することもできるかも知れない。

文学や音楽とはこの点で工芸品とは距離がある。それでもまだ音楽の方には用途らしきものはある。ダンス音楽とか、劇音楽、儀式用音楽、社交用音楽、BGM等々、用途とも機能とも言えるものだが、文学の方は用途を論議するのは難しい。

純粋美術とかファインアートとか呼ばれている絵画や彫刻などはやはり工芸品に近いところがあって、室内装飾とか建築装飾といった用途が考えられる。その装飾される建築はどうかといえばもちろんはっきりした用途を持っていて住居か事務所、製造所か遊技場、劇場、宗教施設といったところだろう。

整理してみると、
文学→演劇→音楽→舞踊→ファインアート→建築・工芸の順に形式と用途との関係が密接になってきていると言える。音楽、舞踊とファインアートとの開きは相当あるかも知れない。

言葉を用いる文学の内容はもちろん「意味」である。音楽の内容も「意味」であると言われる。よく「音楽は言葉で表現できないものを表現する」と言われるように、これはかなり言葉に近い、あるいは言葉に隣接する種類の意味とも言えるだろう。

その音楽でも、時代と共に発展するにつれ、美よりも意味の方を求める傾向性は常にあり、そういうとき、ダンス音楽のような用途に由来する形式は文学あるいは演劇などの影響を受け、新しい形式が生み出されたりすることがあったのだと思う。例えば、ベートーベンは舞曲のメヌエットをスケルツォに作り替えてしまった。スケルツォは「諧謔曲」だから、これは「美」よりも「意味」に深く関係する言葉である。また文学的であるとも言える。このようにある種の芸術分野ではより意味性の強い他の分野の影響をうけて新しい形式が生み出される事が多いのではないだろうか。

意味性が上記の序列の順に薄れてくるとすれば逆に上記序列の順に増加しているものが「美」であると言えるように思われる。美と意味とがどのような関係があるか、美は意味では無いのかといった疑問はこの際おいておくとして、上記序列の順に美への要求が高まってきているようには思えるのである。少なくとも一般から求められる要素としては右にゆくほど、美が求められていると言える。

この序列で工芸は右端に位置するように、伝統的に、そこに意味性よりも美を求められることが多かったといえる。また美しいものが価値あるものとして尊ばれ、受け継がれ、評価されてきた。これは用途、すなわち機能が美と関係が深いからということであろうか。といえばそれは必ずしもそうではないだろう。

またこういうところから機能主義、建築工芸における機能主義が生まれてくる必然性が感じられるが、だからといって、機能主義が正しい、あるいはそれだけが工芸の美であるというわけでも無いだろう。

要は用途に由来する形式の作品、創作物に優れた美質を持つものが歴史的にも数多くあり、また美が求められてきたということであって、機能性そのものは求められる場合もあるが、全く求められない場合もあったのであり、実用品ではなく工芸品、そして歴史的作品の場合は骨董品の場合は実用性は求められない場合が殆どである。それにも関わらず形式としては元の用途、機能に由来する形式が同時に求められているのである。

この用途はしかし、どのような用途すなわち機能でも良いというわけでは無いのである。具体的に言えば工芸、特に陶磁器では殆どが器であったと言えるし、ガラス工芸でも主流は器であったと言える。ここで器であるということの意味は何かを考えることができる。器であるということ自体に大きな意味があるともいえる。

いわば器の機能が象徴性を持たされているとも言えるし、作家が器の象徴性を利用しているともいえるのである。

2008年5月6日火曜日

ガラスという物質

工芸では形式と同様に素材への執着が最も基本的な要素になっている。

ガラス工芸の素材すなわちガラスという素材は、中でも独特である。

一般の不透明な素材は表面が見えるだけであるのに対し、ガラスは透明なものであるから、物質の内部まで見えるような気がする。

しかし、実際のところ、透明なガラスであっても見えるのは表面だけなのだ。 表の表面と裏の表面とを見ているだけなのである。 内部にインクルージョンや気泡がある場合、インクルージョンの表面を見ているか、気泡の表面を見ているだけなのだ。

ものを見るということはものの表面が立体的に形作る表面を見ることであり、そこで反射なり透過する光の色彩と明るさとを感じることなのである。ものそのものを決して見ることがないというのは、最近話題になることもある暗黒物質、すなわちダークマターの場合と変わるところがない。

とはいえ、ガラスという材料は、以上のようなことを気づかせてくれるのである。

ガラスという言葉

ガラスという言葉、日本語の言葉として定着しているこの言葉には依然として、必ずしもガラス関連の全てをカバーするだけの力を持っていない様に思われる。 例えば、英語では飲み物の器に対して用いられる glass を日本語に訳すときはガラスではなくてグラスが用いられる。 ステンドグラスはステンドガラスと言ったり書いたりすることはまずないし、グラスアートもガラスアートとというよりもグラスアートという方が一般的だろう。それでもガラス工芸をグラス工芸とは言わないし、ガラス器をグラス器とも言わない。ステンドグラスをステンドガラスとは言わないが、板ガラスを板グラスということはまずない。

ガラスには硝子という漢字が当てられているのに対し、グラスに漢字が当てられることがない事から推察すると、やはりガラスの方が日本語の発音体系に合っているのだろう。 しかし、ガラスという言葉の語感に対してはどこか物足りないもの、不満を感じている人も多いことが分かる。

宮沢賢治は、詩や童話で、何時でもというわけではないが、玻璃ということばを使っているときがある。彼は漢文の法華経など親しんでいたと言われるから、その方面の影響があったに違いないが、やはり、ガラスという言葉を詩の中で使うのには不満があったのだと思う。 しかし、玻璃と言う言葉を常に使い続けることは出来なかったようだ。

玻璃を古語辞典で調べてみると、かつては水晶の意味で使われていたと書かれている。 しかし同じ古語辞典によると、水晶と言う言葉も古くから使われていたことが枕草子に使われている用例が出ていて、分かる。 とするとやはりガラスは玻璃だったのだろう。

ガラスが日常的に広く使われる時代になって、玻璃が使われなくなったのは、それが古くからわずかながら有るにはあったにせよ、本格的に使われるようになったものは西洋から導入された訳だから、江戸時代にはギヤマンとか、明治になってからはガラス、というように、入ってきた国の言葉を外来語として使用するほうが良かったのだろう。 また玻璃には同音語が多いし、字も難しい。 同音語が多い言葉だから仮名で書くわけにも行かない。

というわけで、ガラスという言葉には多少妥協の産物のような印象がぬぐえないところがある。 個人的にもあまり好きではない。 かといって玻璃という美しい言葉が復活することも有りそうにない。 残念なことだと思う。

2008年5月5日月曜日

機能、用途、形式、様式、およびジャンル

建築と工芸では機能と用途がよく問題にされる。 絵画では機能や用途が問題になることはあまりないだろう。 しかしイラストや図案、などでは問題になってくるが、これはもう工業デザインの範疇であって工芸に近くなる。 全く異なった分野である音楽ではどうだろうか。音楽で問題にされることが多いのは形式という言葉だろう。 とくにクラシックではソナタ形式とか、色々形式に名前が付けられている。 また音楽ではジャンルがよく使われる。クラシック、ジャズ、ポップス、歌謡曲、民謡、こういうものはジャンルと呼ばれることが多い。 現実には音楽にも「用途」はある。 ダンス音楽はダンスの伴奏が用途といえば用途である。 クラシックでは舞踊音楽が形式に変化した。 メヌエットやワルツなどがそうだ。 これらの言葉は互いに重なる部分が有る。 重なる部分を別の言葉に置き換えることによって、新たに何かが見えてくることもあるのではないか。

特にガラス工芸でよく問題になったのは機能、用途の問題である。 これらの言葉を形式、ジャンル等に置き換えてみて考えることも必要だろう。

光と光源

ステンドグラスも含め、ガラス工芸を語るとき、とかく光についての言及が繰り返される。

光とは何なのか、それは考えるまでもないことかも知れない。 誰もが光を見ており、知っている。 しかし、これが科学であれば厳密な定義が求められると同時に、そのこと自体が追求の対象となる。 色彩と同様に。 そして現在、物理的には色彩と同様に、基本的に定義は定まっている。 つまり電磁波の一種である。 しかし電磁波とは何かということになると、これはそう簡単に一つの言葉で置き換えるわけには行かないし、物理学者でもない素人が強いて説明するとすれば科学事典か百科事典をそのまま引用する他はあるまい。

それでも、
工芸、デザインなどのアートを考える上でも、それを言葉で考え、説明しようとする限り、科学的な定義や説明を手がかりに出発するほかはないだろう。

光は電磁波であって粒子として振る舞うものだといわれている。粒子といっても砂粒や小麦粉のように固まって容器に入っていたり、空中に飛散したり、沈殿したりするわけではなく、高速の光速で動いている。 最近は光を何らかの方法で閉じ込めたり出来るらしいが、それは極微の世界のはなしで、この際あまり関係はなさそうだ。

というわけで、波動として光速で進み、粒子としても極微の光を見るということはナンセンスであることが分かる。 第一、ものを見るということは光を当てて反射させたり、透過させて見るということであるから、光に光を当てて見るなど、そんなことが出来るわけがない。

それにも関わらず人は紛れもなく光を見る。 ガラス工芸を論じる際には光を貯めるとか、自由自在に操れるかの様な表現もよく見受けられる。

要するに、人は光を見ていると思うとき、光そのものではなく、光源を見ているのである。光源を見ると考えることによって、それ以後の論議を進めることができるようになるだろう。

そこで、
光源とは何か、がまた問題になることだろう。
物理的にはこれはきわめて簡単に片付くことかも知れない。
光の発生源といえば一応はそれで済む。
しかし、逆に、
芸術家や工芸家の立場からはそのような定義では満足できないのではあるまいか。

光源とは何だろう?