2008年7月2日水曜日

工芸の形式(1) ―― 意味と美と形式


工芸品の形式はだいたいその用途に由来している。用途、すなわち機能といっても良い。
用途に由来する形式を持つ美術品を工芸と呼ぶ、と定義することもできるかも知れない。

文学や音楽とはこの点で工芸品とは距離がある。それでもまだ音楽の方には用途らしきものはある。ダンス音楽とか、劇音楽、儀式用音楽、社交用音楽、BGM等々、用途とも機能とも言えるものだが、文学の方は用途を論議するのは難しい。

純粋美術とかファインアートとか呼ばれている絵画や彫刻などはやはり工芸品に近いところがあって、室内装飾とか建築装飾といった用途が考えられる。その装飾される建築はどうかといえばもちろんはっきりした用途を持っていて住居か事務所、製造所か遊技場、劇場、宗教施設といったところだろう。

整理してみると、
文学→演劇→音楽→舞踊→ファインアート→建築・工芸の順に形式と用途との関係が密接になってきていると言える。音楽、舞踊とファインアートとの開きは相当あるかも知れない。

言葉を用いる文学の内容はもちろん「意味」である。音楽の内容も「意味」であると言われる。よく「音楽は言葉で表現できないものを表現する」と言われるように、これはかなり言葉に近い、あるいは言葉に隣接する種類の意味とも言えるだろう。

その音楽でも、時代と共に発展するにつれ、美よりも意味の方を求める傾向性は常にあり、そういうとき、ダンス音楽のような用途に由来する形式は文学あるいは演劇などの影響を受け、新しい形式が生み出されたりすることがあったのだと思う。例えば、ベートーベンは舞曲のメヌエットをスケルツォに作り替えてしまった。スケルツォは「諧謔曲」だから、これは「美」よりも「意味」に深く関係する言葉である。また文学的であるとも言える。このようにある種の芸術分野ではより意味性の強い他の分野の影響をうけて新しい形式が生み出される事が多いのではないだろうか。

意味性が上記の序列の順に薄れてくるとすれば逆に上記序列の順に増加しているものが「美」であると言えるように思われる。美と意味とがどのような関係があるか、美は意味では無いのかといった疑問はこの際おいておくとして、上記序列の順に美への要求が高まってきているようには思えるのである。少なくとも一般から求められる要素としては右にゆくほど、美が求められていると言える。

この序列で工芸は右端に位置するように、伝統的に、そこに意味性よりも美を求められることが多かったといえる。また美しいものが価値あるものとして尊ばれ、受け継がれ、評価されてきた。これは用途、すなわち機能が美と関係が深いからということであろうか。といえばそれは必ずしもそうではないだろう。

またこういうところから機能主義、建築工芸における機能主義が生まれてくる必然性が感じられるが、だからといって、機能主義が正しい、あるいはそれだけが工芸の美であるというわけでも無いだろう。

要は用途に由来する形式の作品、創作物に優れた美質を持つものが歴史的にも数多くあり、また美が求められてきたということであって、機能性そのものは求められる場合もあるが、全く求められない場合もあったのであり、実用品ではなく工芸品、そして歴史的作品の場合は骨董品の場合は実用性は求められない場合が殆どである。それにも関わらず形式としては元の用途、機能に由来する形式が同時に求められているのである。

この用途はしかし、どのような用途すなわち機能でも良いというわけでは無いのである。具体的に言えば工芸、特に陶磁器では殆どが器であったと言えるし、ガラス工芸でも主流は器であったと言える。ここで器であるということの意味は何かを考えることができる。器であるということ自体に大きな意味があるともいえる。

いわば器の機能が象徴性を持たされているとも言えるし、作家が器の象徴性を利用しているともいえるのである。

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